陸編(2):水俣
- 2019.06.27
- 研究航海
不知火海の中南部にある水俣にやってきました。
新水俣駅から肥薩おれんじ鉄道に乗り換えて一駅ですが、未だ不発弾の撤去のため運休する路線のようです。
一両ワンマンで運行している、カラフルな車体ののどかなローカル線です。
水俣駅は非常に綺麗に整備されていました。
過去の公害の歴史を乗り越え、環境首都としての再出発に自治体ぐるみで取り組んでいるようです。
水質を意識したロゴマーク。
宿泊したホテルも、ロハスというキーワードを前面に様々なエコ活動に取り組んでいましたが、なんでもエコやロハスの枕言葉がつき、認定証の類が多すぎて正直何を基準に評価しているのかよくわからないことになっています。
ある程度専門知識のある研究者から見て意味不明ということは、一般の方にはほとんど通じていないはずです。
※ホテル自体は快適にステイできる環境でした。
日本の4大公害病の一つとして有名な水俣病について学ぶ為に、一般財団法人水俣病センター 相思社 と、併設されている 水俣病歴史考証館 を訪れました。
不知火海は魚介類にとって格好の産卵場所であるため、かつては獲っても獲っても魚がなくならない魚湧く(いおわく)海と呼ばれていました。
その頃の小規模漁業の用具類。
サバイバル調査をしてきた経験からは、どれも使い勝手が良くうなづける道具ばかりで、いかに海が豊かであったかが身に沁みて感じられます。
やがて、水俣市は自治体ぐるみで戦後の高度経済成長にとってはなくてはならないプラスチック製品や化成肥料を作るチッソ水俣工場を誘致し、公害問題が発生します。
チッソ工場で作られていた製品と、それらの製造工程における触媒としてメチル水銀が発生するメカニズムの展示。
チッソ工場の百間排水口から水俣湾に排出されたメチル水銀は、やがて当時知られていなかった生物濃縮を経て、魚介類の摂取により人間の体内に蓄積し、激しい神経症状や奇形を伴う水俣病を発症します。
当時のチッソは化学合成の最先端を行く企業ですから、当然優秀な科学者チームがいます。
しかし、チッソの科学者が出すレポートが結果的に長期にわたって水俣病の真の発生源を隠蔽することになりました。
分厚い論文・レポートにより、水俣病とチッソの排水が無関係であることを示す「科学的エビデンス」の数々。
また、水俣地域全体では漁民が3%に過ぎず、山間部で暮らしている人口がマジョリティーであったことも、問題の糾弾を遅らせたのかもしれません。
今となっては奇妙に見えますが、原因究明のための学説が増えれば増えるほど、真の原因であるチッソの追求を隠蔽する結果となってしまったのです。
最終的には熊本大学など第三者機関の科学者が関わることにより、発症機構の解明と公表にたどり着いた水俣病ですが、このように公害問題発生初期の科学的データというのは出資者が誰であるかによって全く当てにならないことがわかります。
これは現在でも変わらない組織の力学であるように思われます。
「次々に新しい学説が生まれているホットな分野」で健康に関わるものには、特に注意した方が良いでしょう。
排出されたメチル水銀を高濃度に含むヘドロは水俣湾に堆積し、不知火海を拡散していきました。
それらを完全に取り除くことは不可能で、金属壁で囲んだ閉鎖空間を作り、浚渫した汚泥をその中に封じ込めて埋め立てる工法が実行されます。
相思社の方の話では、更に高濃度に生物濃縮された魚介類を捕獲しドラム缶に詰めたものも埋め立て資材として使われたそうです。
つまり、今でも流出すれば非常に毒性の高いメチル水銀が、なんの処理もされずそのまま「エコパーク」と称する埋立地の地下に埋蔵されているというのです。
このような工法は、他の場所で果たして認められるものでしょうか?
例えば東京湾でこのような工法を採用することなどありえるのでしょうか?
歴史考証館ではその後の公害訴訟に関する展示も充実しています。
実際のデモや裁判で使われた旗は、人を斬るような生身のアウラを放っていて、思わず身が射すくめられます。
(実際の陳情文書や患者認定証など撮影不可能な資料が多いため、現地に行って見学されることをお勧めします。)
かつて帆船(打瀬船)で底引き網をする光景が生業を支えていた不知火の海の豊かな漁村に、高度経済成長の功罪がもたらした人間存在に関わるような重大な集団的過失。水俣病はまだ終わっておらず、我々の理解と未来への確固たる視座の再建が求められています。
石牟礼道子さんの「苦海浄土」は、水俣病と共に生きる人々に添い遂げるような凄まじい文学です。科学や数理モデルだけでは計り知れない命の葛藤が込められているように思います。
読んでいて全身が締め付けられるような、永遠の業苦に放り込まれたような描写が続くと同時に、それらを照らし出す海の光や、照りつける日差しを抜けてくる風や、痛みや痺れに震える手足の動きまでもが、一つ一つ紛うことのない命の営みとして描き出されているように感じます。
その後、チッソ工場の百間排水口付近の汚染海域を埋め立てた「エコパーク」にある水俣病資料館(市立)・水俣病情報センター(国立)にタクシーで移動。
ずっと水俣育ちであるという年配の運転手の方が、かつての水俣の暮らしや風情、集落の仲の良さ、それが公害によっていかに引き裂かれていったかを話してくれました。
特に、住民間の対立を生んだのは、水俣病患者に対する賠償を巡って多額のお金がもたらされたため、その利益に群がろうとする欲が人々を対立させたと語っていました。
こちらは水俣市・国がまとめた資料で、本物の纏うアウラはありませんが知的には非常にわかりやすくできています。
主に九州各地から来ている多くの修学旅行生たちとともに学びました。
展示を見ている小学生達を見て、思わず泣けてきました。
自分より若い無垢な世代が、人の手によって同じ無垢な命に起きた凄惨な出来事を初めて知り、向き合っている。
この先、生まれてくる次の世代にも、また次の世代にも、我々はどうやって説明していけば良いのだろう。
この世界に生まれたことが罪悪とならないように、また苦痛にならないように、今何を理解し共有すべきなのだろう。
小学生達とともに見学したことによって、単に一個人の理解を超えて次の世代にいかに語り継ぐべきかを痛烈に意識させられました。
メチル水銀が必須アミノ酸の一種であるメチオニンと非常に似た分子構造をしていて、脳-血液関門や胎盤を通過してしまうメカニズムを分子生物学的に示した展示。
日本の全ての大学の教養課程で学ぶべき内容だと思いました。
水俣病という特異的な場所の名前がついてはいますが、その認定患者だけでも不知火海沿岸に広がり、更にその症状も劇症を伴う重度のものから軽微なものまでロングテイルをなしていることも見逃してはなりません。
その意味では、「水俣病」というのは誤解や差別を生みやすい名前であると言えるでしょう。地名から病名をつけるのであれば発生地域一帯の名を冠した「不知火病」とでもするべきであり、発生メカニズムからは「メチル水銀中毒症」および「胎児期メチル水銀暴露症」となり、それぞれに「劇症型」「感覚障害型」などのステージ分類が可能です。また、被害者差別を生むことが容易に予想される「水俣病」ではなく、発生原因企業の名を冠した「チッソ病」などの病名も検討されて然るべきでしょう。
水銀を含む汚泥を埋め立てて封じ込めることで作られた「エコパーク水俣」施工前後の写真。
未来世代に、流出動態が不明確な水銀の地下資源を残したと言えるでしょう。
大型魚介類の行き来を遮断し生物濃縮を制限するために恋路島の左右に設置されたネットは、海底の水銀濃度が基準値以下になる1997年まで設置されており、その後もモニタリングを継続しているという事実に、今更ながら現在進行形の問題であることを突きつけられます。
一度環境に拡散し生態系や人体の奥深くまで蝕んでしまった公害病に完全な補償など到底不可能な中で、どのように苦しみや対立を超えて新たな生き方・産業のあり方にたどり着けるのか。それを水俣の人たちは「もやい直し」と呼んで、今まさに町ぐるみで取り組んでいるところです。
水俣病情報館の屋上から眺めた百間排出口と汚染区域があった場所。左側が埋立地のエコパークになっている。右側の沖に見えるのが恋路島で、左右の陸地まで仕切網が張られて大型魚の行き来が遮断されていた。
水俣湾の浚渫区域の中心にあった部分にも行ってきました。
現在は百間埠頭と呼ばれているようで、小型船舶を係留できる小さな浮き桟橋(水俣港百間浮桟橋)と、大量の木材を積み込み海から搬出している広大な護岸部になっている。
広大なエコパークに点在する運動場、花畑、空き地。
最後に、水俣病の語り部として活動されているシラス漁師の杉本肇さんの話を聞くことができました。
内容は、是非みなさんに直接聞きに来てもらいたいので書きません。
小学生にも大人にも非常に明瞭にわかりやすく、またいたずらに感情に訴えるのでもなく、淡々と公害そして自分の人生と向き合い生きてきた生身の経験を話されています。
「チッソの人たちは水銀に毒性があると知っていても、海に捨てれば薄まって無害になると思っていた。それは皆さんが食器洗いの洗剤を毒だから飲まないけれども、流しには平気で流してしまうのと同じような感覚」という例えにはハッとさせられました。
辛い体を引きずりながらも、晩年はそれさえも受け入れて生きていこうと決意された杉本さんのご両親の笑顔が深く印象的でした。
私は、いわゆるトップレベルの研究者から国内外を問わず「漁師の言うことなど客観性がない」「漁師はリテラシーがない」などと面と向かって言われたことがありますが、それは同じ人として一種の職業差別をしているように感じました。科学的知識は確かに強力ですが、それだけに止まらない現場の様々な体験知や、悲喜交々を伴う実際の生活が噛みあってこそ、多様な人々を阻害しない社会の実現、それを支える豊かな自然環境の存続に向かえるのではないでしょうか。チッソの行ったことは化学反応や経済発展としては正しくても、社会-生態系にとっては非可逆的な災禍をもたらしました。現代の根幹をえぐるような社会病理がもたらした苦しみと対立を乗り越え、世界でも未だ達成されていないグローバリゼーションと地域社会の共生のあり方を探ること。水俣はまさにそのような方向に再生しようと苦闘を続けているように感じられました。
水俣は非常に風情があり歩いていて和む街並みが広がっています。
駅前の可愛い長屋風食堂街。
史跡・永代橋近くの風景。
明治の文豪、徳富蘇峰・蘆花の生家。
昔はそろばん塾で、相思社の方はそれとは知らずに通っていたそうです。
水俣市が環境首都としての再生・発展を目指して取り組む「もやい直し」活動を支える公民館的な役割のもやい館。
市街地北部を流れる水俣川。
河口近くに流れ込む支流。いずれも護岸や生活排水などの影響かそれなりに濁っています。
水俣川の河口。コイが群れ、ボラが跳ねています。
(左側中央にボラが跳躍)
補助金で作られたと思われる、川の近くの立派な武道館。
大きなアパート群があると思ったらJNCのものでした。
JNCとは、チッソが改名した会社で、水俣病の補償以外の全業務を継続して引き受けて活動しています。
つまり、(特に水俣病の患者団体からは)実質チッソが「水俣病を引き起こした企業」と言うレッテルを免れるために改名した会社であると見なされているようです。
地図で調べてみると、今でもチッソの工場は「JNC水俣製造所」として同じ海に面した駅前の中心地で稼働しており、他にも多数の施設を持ち町の経済を支える重要な企業です。
つい最近もニュースになりましたが、国と県が水俣病の賠償金を援助してチッソを存続させているのです。
実際に行ってみると、チッソとJNCが軒を連ねた看板がありました。
工場の正面入り口には警備がつき、テロ警戒や不審者監視の看板が立ち並び多少物々しい雰囲気です。
広大な工場区画に沿って堀と塀が連なり、広大な敷地の中を窺うことはできません。
工場からの排水が流れている川では、大きめのウグイ類が泳いでいました。
大きな道路に面した角には綺麗な花壇が整備されています。
道路をまたいで街から工場へ、太い送電線が通っています。
工場の外堀を渡れる唯一の小さな橋は、鬱蒼とした藪に覆われ閉鎖されていました。
近づいてみると色褪せた「患者センター」の看板が。
かつて水俣病の患者に補償をする為に作った運営センターに通じる通用門だったようです。
チッソ工場内には生産している製品の展示室があるようですが、見学者によると水俣病の記載はどこにもないそうです。
また、JNCのCSRページには環境保全への取り組みとして大気・水域への排出のモニタリング状況が公表されていますが、水銀の項目はなく、排出量に関しても全て過去に対して削減できた相対的パーセンテージの記述のみになっています。絶対量としてそれがどの程度生態系に影響を与えるかの説明は見当たりませんでした。
大企業の資本が入った区画がある一方で、市内各所には放置された空き家も点在していました。
家の中からクマザサが生え始めている場所も。
手水舎が非常に立派な水俣八幡宮。
横のお稲荷さんは独特の雰囲気を纏っており、天井の装飾が精緻で、色彩のあった往時の想像を掻き立てます。
開けた区画では、メガソーラーと大規模ビニールハウス。背後にはゴルフ場。
近くのトンネル工事のための土建業者の集合プレハブ宿舎。
外部の資本が入って開発されているようでも、脇には石垣の水路が残されており、サワガニやオオシオカラトンボが棲息していました。
昭和の風情を残す暗渠沿いの横丁。
時折時間が止まるような光景が待っています。
山方向に登ってみると、ところどころから不知火海を望めるなだらかな丘陵地では林業や稲作が行われており、山間部に小規模な集落がいくつも点在していました。
港から搬出していた大量の木材は、これらの山から切り出したもののようです。
途中で山菜狩りをしている人たちもおり、水俣は山も豊かなようです。
見上げれば、急転する梅雨空の合間から日輪。水俣の今後を照らしてくれることを願ってやみません。
チッソ工場の煙突からは今日も煙が出続けており、我々の現代生活にとっての必需品を作り続けています。
-
前の記事
陸編 (1):天草・熊本 2019.06.26
-
次の記事
社団合宿:(1)本栖湖 2019.08.05