サハラの呼び声: 1. 砂漠の祈り

サハラの呼び声: 1. 砂漠の祈り

「サハラの呼び声」は、2017年7月より2018年4月まで、SonyCSLのメールマガジン「T-pop News」に当法人代表の 舩橋真俊 が連載したノンフィクション小説です。
五井平和財団における講演会と連動して、協生農法のアフリカにおける実践の始まりを伝えるコンテンツとして、第一部を公開します。

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扉の鍵を確認して、壁に手をつきながらかろうじて排尿を終えると、私はベッドに倒れこんだ。
目を閉じると悪寒が広がる。
39度ー体温は明らかにインフルエンザの兆候を示していた。
寝ていても眩暈に意識が遠のく。
外の気温が39度なら、熱拡散で悪化することはないーそんな理にもつかないようなことを頭にめぐらしながら、自分を貫く一本の細い線に身を委ねて、深い闇に沈んでいった。

アフリカ・サブサハラの乾燥地帯のブルキナファソ。
農業による環境荒廃と紛争が絶えない土地で、私は一つの勝負をかけようとしていた。
協生農法という新たな農法。それは、これまで一万年以上にわたって環境破壊の原因となってきた農業を根本的に再構築し、農業によって生物多様性を回復しようという起死回生の手段である。
これまで世界中の研究教育機関を訪れ、各国を旅する中で、21世紀に人類が直面する人口増加、資源の枯渇、そして健康問題や環境問題を考える機会があった。そんな中、それらの包括的解決手段として見出した日本のある農法を科学的に発展させることで構築されてきたものである。
日本における4年間の実験から構築したモデルは、乾燥地帯などの極限環境における卓越性を示していた。
数ヶ月前、東京で計算機から出力されるシミュレーションを睨みながら、私はあれこれ戦略を巡らせていた。そして最貧国で最も自然環境の荒廃が厳しいサブサハラに白羽の矢を立てた。
理論さえ正しければ、実証は時間の問題だ。
しかし、今はただ立たなければならない。いつもやっているように、ベッドの中から、一歩を。

遠くでは祈りの声が続いていた。
キリスト教系の参加者が多いネットワーキングフォーラムで、皆朝の7時からミサを行っているのだ。
神に疎い私はどのみちサボるつもりでいたのだが、彼らの唱和する声はうずくまる私の耳にも届いていた。
「皆、あなたのために祈っている。調子はいかがですか」
長身のすらりとした男性が入ってきた。
アラン・グバだ。
全身豹柄のスーツを着こなし、気品のある顔立ちと慈愛に満ちた物腰で、これが宗教が作り出す人間なのか、と唸りたくなるほど格好が良い男である。
「昨日から何も食べていませんが、大丈夫です。いただいたタマリンドのジュースで少しずつ回復しています」
「それは良かった。無理せず、発表をお待ちしています。」
それから立ち上がるのに2時間かかった。そしてかつてないほど長い廊下をー実際は10メートルに満たないのだがーくぐりぬけて集会場に入ると、皆道を開けて私を最前列の演席に通した。
私以外は全員アフリカ人だった。
だれかが私の事情を説明しているのを朦朧と聞きながら、パソコンを準備するーいや、だれかが準備してくれたのかもしれない。そして皆に感謝の言葉を述べて向き直ると、言葉が、一つ一つ、私の口から流れ出した。

それはだれかが私の背後からささやいてくれているかのようだった。
朦朧とした意識の中に、天空から一条の光が差してきて、それに乗って一つ一つ言葉が奏でられていくようだった。
ここで伝えたかったのはこの理論、
ここで重要なのはこの事実、
そしてここで伏線がつながるー
45分が経過し、全てを話し終わった時、あれほどボロボロだった体調は、あろうことかかなり回復していた。
視界も明瞭になり、質疑応答にもいくつか答えた。
この分ならいけるかもしれないーそう思いかけた瞬間、再び私は悪寒の重力に捕まり、その後三日間寝たきりで過ごすことになった。

運び込まれた病院では、インフルエンザに続く細菌性感染症と診断された。
インフルエンザで弱った身体が、サハラから飛んでくる砂塵の微生物に晒されて肺が二次感染を起こしたのだ。
尤も、インフルエンザと診断したのは私自身で、地元の医者はこんな奇妙な患者が来たのは初めてだったようだ。
出てきた混血の女医に、私のはエボラでもなくアフリカにいるウィルスでもないと説明し、自分は獣医だから大体の病気はわかる、人間も哺乳類の一種でしょうとまくしたてると、半ば呆れて抗生物質とビタミン剤を処方してくれた。
乾いて軋むシリンジで採血をすませると、翌日には電話をくれて細々と検査結果を説明してくれた。
朦朧とした頭で、結果が合っていたことを確かめると、後は聞かれるままに適当に軽口を叩いて過ごした。

ワガドゥグの街は砂塵が吹き荒れ、夜になると50m先は見えない状態だった。
最終日に、アラン・グバに感謝しながら小さなレストランで会食すると、私は失意を抱いて帰りの飛行機に乗った。
機内は寒く、疼くように、肺の奥が痛んだ。

協生農法のプレゼンを行った、ECHO主催の西アフリカネットワーキングフォーラム。

砂塵に覆われた夜のワガドゥグの街。

ー続くー