「整える」こと

「整える」こと

先日行われた森ビルのキッズサマーワークショップに前後して、六本木ヒルズ屋上庭園の様子を視察しました。
その中で関係メンバーから出てきた生態系を「整える」という表現について、生態系を記述する上での言葉の選び方にとって重要な点を含んでいたので、所感を書いておこうと思います。

「整える」とは、誰が整えるのでしょうか。
生態系は、植物や動物がそれぞれ生存していく中で全体を形作る力があります。
いわば自然は自らを「整える」作用を内在しているのです。これは自己組織化と呼ばれたり、植生遷移や進化と呼ばれたりします。

一方で、人間は自らの主観的な感覚に従って、園芸用の庭を、農地を、「整える」ことを良しとします。この場合、整った状態というのは千差万別で、モノカルチャーのきれいに整列された雑草ひとつない畑を整ったと感じることもあれば、適度に撹乱されて共存種の数が多い状態を整ったと感じる人もいます。人間が整える場合、生物多様性が上がるか下がるかが総体的に評価されて初めて、生態系とその機能にとっての意味が決まるのです。

同じ言葉で表現される「整える」の意味しているものの中には、実は天と地ほどの差があります。
「協生農園を整えてください」と言うと、皆勝手なことをやり始めるでしょう。
従って、単に「整える」と言うと、一体何を表しているのかがはっきりしません。
「協生農園を整えた」とあなたが感じた時、それは生態系にとってどのような意味を持っているのか、どこまで認識できているでしょうか?どこまでが生態系機能に影響していて、どこまでがあなたの主観的な趣味なのでしょうか?
常に主語が何か、そして依って立つ基準とは何かを明示しない限り、連想が連想を生んでイメージ遊びになってしまいます。
仮に作業している本人にとって具体的な定義があったとしても、単に「整える」という表現を使ったことで違った意味で伝わってしまうことが多々あるのです。
言語による伝達は、伝言ゲームのように常に情報量を減らしてしまうリスクがあります。生態系に関する情報の正確性が損なわれると、食料生産においては生態系の機能を利用して生物多様性を増やす方向(生態最適)から、分からない要素を全て排除して単一種の育成を優先する方向(生理最適)に向かうバイアスがかかります。そこから、今日の食料生産に内在する持続可能性の問題が出てきています。
生態最適から生理最適へと劣化していく形での知識伝達は、かつて豊かな里山環境と連結していた伝統的な農法が近代化する過程でも広範に認められます。協生農法は同じ轍を踏まないように、先ずその認識の出発点を正し明らかにすることから始まります。(実際に様々な農法の現場では、例えば「肥料」の範疇に意図的に含めない例外を設けて、実際は有機肥料を与えているのに無肥料栽培をうたっているというレベルの人間都合の表現の曖昧さが許容されてしまうことがよく起こります。)従って感覚的な言葉で回収せずに、常にある目的に向かって生態系を変化させていくために行うべき一連の手順のような、具体的な前提と方向性を明らかにした表現が重要になります。(専門的には、生態系のプロアクティブな見方と言います。)

特に気をつけるべき言葉の罠は、生態系を人間社会に例えるアナロジーです。
「多様な個性が共存していると組織にとって良いのは、生態系も人間社会も同じ」という言い方は、卑近な経験に紐づいた理解を強力に促す一方で、その意味することの中身を検証することから人の思考を遠ざけてしまいます。
なんとなくわかった気になるだけで、生態系のメカニズムベースでの理解が先送りにされ、却ってより深い学習の妨げになる場合も多いのです。

舩橋が講演会などで話す際も、できる限り生態系と人間社会のアナロジーは避けるようにしています。
代わりに、生態系と多細胞生物(人体)のアナロジーなど、日常経験のスケールを敢えて飛び越えて避けて、複雑系としての自己組織化の在り方を逐一調べたり観察してみないとイメージが湧きにくい表現を採用しています。
自分の細胞がどのように活動して自分の命を支えてくれているのか、逐一わかるでしょうか?傷が治っていく過程をつぶさに観察したり、細胞の顕微鏡写真や機能に関する専門的な知見を調べていかないと、なかなか具体的に捉えるのは難しいでしょう。それと同じぐらいわずかな理解しか、我々は生態系に対して持ち合わせていないのです。しかし、それが「人間社会と同じ」と言った時点で、日常経験の延長に接続されてわかった気になってしまい、改めて自分の手をじっと見て感じようとするような本質的な時間が、永久に先送りにされてしまうのです。

そしてまた、「整える」というキーワード自体を農法の説明に使うことも意図的に避けています。
なぜなら、「生態系の自己組織化を促進する」「植物の自発的な成長に任せる」という協生農法にとって重要な原理・手法の理解を深めるのに、「整える」という表現はあまりに間口が大きく、徒らに分かった気になってしまい本質的な学習を進めるチャンスを逃すリスクの方が大きいと判断しているためです。
「部屋の荷物を整えてください」なら問題は少ないでしょう。
しかし、指導言語としては「生態系を整えてください」というのは致命的なのです。
「農園内に共存する植物種が増えるように繁茂具合を調整する」なら少し具体性が出てきます。
同じ理由として、「自然本来のバランス」「自然界の摂理」と言った表現も、本質的なことを言い表しているようでいて、なんらの基準も定量性も示しておらず、指導言語としては欠陥の部類に入る為、極力避けるようにしています。

このように厳密な言葉使いの工夫が、協生農法のマニュアルを始めとする様々な表現法には張り巡らされています。
一見シビアに見えますが、トップアスリートがしのぎを削るスポーツ科学などでは、指導言語一つで超一流から三流までの差が生じることもあり、協生農法においても上達を目指すための本格的な体系づくりには決して見過ごすことができません。
また、協生農法はアフリカ・サヘル地域の乾燥地で治安が不安定なサバイバル状況下で行なっている人たちもいます。そう言った人々には、極力正確で本質的な表現の工夫が将来を左右する生命線になります。
今後も様々な実地経験や人々の反応を見つつも、より深く本質を穿ち誤解の少ない表現方法を洗練させていきたいと思っています。

そのようなことに思いを巡らしつつ、よく「整った」六本木ヒルズの農園の散策を行いました。